フィリフヨンカでいるのも楽じゃない。

ネガティブ・シンキング、非観的、を絵に描き、文章にしたら彼女のようになるのではと
はじめは辟易させられるフィリフヨンカ。

でも...
ある時、自分の中にフィリフヨンカ的なものを発見する。


たとえば、1999年7月の恐怖の大王。ノストラダムスがこの世の終焉を預言したという説。
私は結構信じてました(笑)。
というより、「信じているいないは別として、7月にこの世の終わりが来てもいいように、
毎日悔いのないように生きていこう」と本気で思っていました。
1998年末に息子が生まれ、しばらくは母乳で育てていたのですが離乳食がはじまった後も
「7月にこの世の終わりが来ても、運良く生き残れるかもしれないから、7月までは母乳が出るようにしておこう、そうすれば少なくとも息子は飢え死にすることはないだろう」と真剣にそんなことを考えていたんですよ!
水たまりがあれば、「落ちるかもしれない」と思い、
頭上に工事中の大きなクレーンがあれば、「倒れてくるかもしれない」と思う。
交差点の角に立って信号待ちをする時は、「暴走トラックが突っ込んでくるかもしれないからな」と
必ず誰かの後ろに立ち(笑)、
電車のホームでも「つんのめった人が私の背中を押すかもしれない」と、絶対に白線の外側には立ちません。
ね?ある意味、フィリフヨンカ的ではないですか?


ネガティブ・シンキングは常に悪いことばかりでもないのです。
仕事の時は案外それが役に立ったりもします。
こと、仕事に関して言えば、
クライアントや取引先に対して、
「普通の状況」を「最悪の状況の場合」として話すことも多いし。

例えば
「この日までに決定をいただかないと、何月何日の納品には絶対に間に合いません」と言うような場合、
実はスケジュール的にはクライアントの内部の事情、決済の遅さを経験で測って、デッド決めていたりします。
相手は相手で
「この人はいつも、3日くらいの余裕を持ってものを言うからあと3日くらいは決済が遅れても大丈夫だな...」
と思っていたりする。
まさに「腹のさぐりあい」的なところもフィリフヨンカ的...


仕事では常に「最悪の事態」モードでやっておくと、後が楽。
「そんなこと想定内」と、去年の流行語ではないけれど、はた目ではあたふた焦っているように見えても
実は心の中では妙に落ち着いていたりします。
それどころか「最悪の状況、来るぞ、来るぞ、来るぞ、そら来た〜〜〜〜!!!」とハイテンションになったり。


まさに嵐が来た後のフィリフヨンカみたいに。


そういう意味でフィリフヨンカを自分の中に発見するのは悪いことではないと思っています。
以前、スニフが一番自分に似てる、と書いたけど、フィリフヨンカもいることがわかった。
ミイ的な部分も、スナフキン的な部分も、そして認めたくないけどスノークのおじょうさん的な部分も、おそらくあるのだろう。


ムーミントロールは?
息子を見ているとムーミンを思い出し、ムーミンの行動や言葉を読んでいると息子を思い出す。
ということはムーミンが、「すべての子供が持っている素直さ、繊細さ、勇敢さ」などの象徴であるとするならば
おそらくムーミンも、かつて私の中にあったものであろう。


ムーミンママは?
私にとっては憧れのお母さんである。今はとても追い付かないけれど、いつかこんな風に大きなものでまわりすべてを包み込むようなあったかい、存在になりたいと願う姿である。


それではムーミンパパは?ミイは?トゥーティッキは?ヘムレンさんは?


ムーミン童話を読むと
「このキャラクターあの人に似てるな」と、
自分のまわりに似た人がいたな、と考えることがよくありますよね、って色んなブログや本に書いてあるけれど
実は、多種多彩なキャラクターたちはすべて、

もとはたったひとりの人物なのかもしれない、とふと思う。

フィリフヨンカのプレート、お友達のお力添えで安く手に入れることができました。

絨毯を洗っている裏面がすてき。
原作ではたしか青いしまの絨毯だったはずですが、ベージュになっています。